〝浄土往生〟を説く経典として『阿弥陀経』、『無量寿経』、『観無量寿経』は浄土三部経として良く知られております。浄土宗また浄土真宗ではこの三部経を基本経典とした浄土信仰を説きます。
中でも十六観法を説く『観無量寿経』は観門の経典であり〝観経〟とも呼ばれます。天台智顗は「観門の不同を明かすとは、すなわちこれ析・体の二種の観門なり」と、観門には析・体の二種があると申しております。
「析仮入空観」と「体仮入空観」、いわゆる析空と体空です。
『阿弥陀経』で舎利弗が全く返事を返さなかったのは五蘊を完全に空じていた為であり、九次第定による禅定で空観に入っても、それは析空である為、空観での仏の説法を聞く事も出来来ません。(耳根も舌根も停止している為)
『観無量寿経』では、その〝禅定〟ではなく念仏三昧による観法で空観に入ります。お釈迦さまの十大弟子の中で誰が最初にこの体空観に入ったのかと言えば、それはおそらく目連ではないでしょうか。『観無量寿経』は目連を中心として弟子達の振る舞いが描かれております。目連は、舎利弗と親友であり修行者としても同期で、二人は釈迦一門の二大弟子として活躍しました。
神通第一の目連は出家してから一週間で阿羅漢の悟りを得たと言われています。これに対して舎利弗は悟りを得るまでに二週間かかったされてます。智慧第一と言われた舎利弗でも目連よりも二倍の時間、二週間を要して最高の阿羅漢の悟りを得たということです。
この二大弟子の「阿羅漢の悟りを得ているか否か」の違いが『阿弥陀経』で描かれている無言の舎利弗と『観無量寿経』で描かれている目連の立ち振る舞いの違いです。具体的に言えば〝声聞〟と〝縁覚〟の覚りの深さの違いです。その違いがどうして起こるのかと言えば「析空と体空」の二つの観門の相違に依ります。
体空で仏の空観(仏の世界観)に入った目連にお釈迦さまは、更に高次元の覚りの境地(真如の世界観)に至る為の十六の観法を説きます。この十六観法を天台智顗は「四門の料簡」として魔訶止観で詳しく解き明かしております。料簡とは、〝思いをめぐらす〟や〝思案〟といった意味で、三蔵教、通教、別教、円教の四門の教えを〝四悉檀〟で開くことで、
四門×四悉檀=十六観法
として難解な『観無量寿経』がひも解かれます。
経典では、まず三福が示されて浄土に生まれる為には、次の三つの福を積まなければならないとあります。
経典では、まず三福が示されて浄土に生まれる為には、次の三つの福を積まなければならないとあります。
一、父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。
二、三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。
三、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。
十善業とは、小乗で示された戒律で、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見の十種の戒で、肉体を中心においた修行ですが、実体思想が強い声聞という境涯に即して示された修行法です。
次に〝三帰〟は、「仏・法・僧」の三宝に帰依することですが、一般的に考えられている三宝帰依は、「仏に従い、法に従い、僧に従う」といったものですが、四悉檀で言えばその考えは「世界悉檀」にあたるかと思います。第一義悉檀では三宝帰依とは、仏=(色界)・法=(無色界)・僧=(欲界)となり、この三界を凡夫の一身に観じとる三界唯心になるかと思います。
仏=色界
法=無色界
僧=欲界
これを天台智顗は、
仏=色界 →空観(仏の世界観)
法=無色界→中観(真如の世界観)
僧=欲界 →仮観(凡夫の世界観)
の三つの世界観として顕し、その三観が一身に顕れる〝一心三観〟の観法を魔訶止観として顕します。
~『佛説觀無量壽經疏』 (智顗訳 )より抜粋~
觀者觀也有次第三觀。一心中三觀。從假入空觀。亦名二諦觀。從空入假觀。亦名平等觀。二空觀爲方便。得入中道第一義諦觀。心心寂滅自然流入薩婆若海。此名出瓔珞經。今釋其意。假是虚妄俗諦也。空是審實眞諦也。今欲去俗歸眞故。言從假入空觀。假是入空之詮。先須觀假。知假虚妄而得會眞。故言二諦觀。此觀若成。即證一切智也。從空入假觀者。若住於空與二乘何異。不成佛法不益衆生。是故觀空不住於空。而入於假。知病識藥應病授藥。令得服行。故名從空入假觀。而言平等者。望前稱平等。前破假用空。今破空用假。破用既均。故言平等觀。此觀成時證道種智。二空爲方便者。初觀空生死。次觀空涅槃。此之二空爲雙遮之方便。初觀用空。次觀用假。此之二用爲雙照之方便。心心歸趣入薩婆若海。雙照二諦也。此觀成時。證一切種智。是爲次第三觀也。一心三觀者。此出釋論。論云。三智實在一心中。得秖一觀而三觀。觀於一諦而三諦。故名一心三觀。類如一心而有生住滅。如此三相在一心中。此觀成時證一心三智。亦名一切種智。寂滅相種種行類相貎皆知也。寂滅相者。是雙亡之力。種種相貎皆知者。雙照之力也。中論云。因縁所生法。即空即假即中。釋論云。三智實在一心中得。即此意也。此觀微妙。即一而三。即三而一。一觀一切觀。一切觀一觀。非一非一切。如此之觀攝一切觀也。