『中論』の第22章「如来の考察」の重要部分を解説します。
まず第2偈の、
2.もしブッダが五蘊に依存しているのなら
彼は本質を持って存在してはいないであろう
本質を持って存在していないなら
どうして彼は他のものに依存するような
本質を持って存在し得るだろうか
五蘊を空じた〝無我〟を説くお釈迦さま(仏)は、本質を持たない〝無我〟です。しかし本質を持ちあわせていない仏がどうして本質を持って実在(仏)として認識されようか。といった文句ですが、実在の仏(釈迦)には自己性、すなわち自我が未だ備わっているということを龍樹は主張しています。(解り易く言えば始成正覚の釈迦は未だ第七末那識に意識がある仏だということ)
次の第3偈は、
3.他の存在に依存するということがどういうことであるにせよ
そのことの自己性は妥当ではない
自己を欠いたものが
如来であり得るとするのは正しくない
縁起(他の存在に依存するということ)がどういうことであるにせよ、仏が自己性を持ちえない如来であるということは正しくない。といった文句です。これは、姿も形も無い「無色界」の如来が〝仏〟という自己性(自我)を持った存在であろうはずがないといった主張です。
そして第6偈では、
6.五蘊に依存するような
如来は存在しないのであるから
どうして依存的でない何らかのものが
そのように依存的に現れるということがあり得るだろうか
実体視は縁起(依存)によって起こる現象です。五蘊が依存しない如来が依存によって現れる(縁起によって現れる)ようなことがあり得るだろうか。という内容ですが、始成正覚の釈迦は「仏として認知」されている時点で仏という〝自己性〟が備わっており、真如たる〝無色界〟における存在とは言い難い。言い換えれば、自己性を未だ備えている仏は色界を世界とし、意識層で言うならば、未だ自我意識をもっている第七末那識にあたります。
7.自己固執はあり得ない
自己に固執する者は存在しない
自己固執することがないのなら
如来はいかにして存在し得るであろうか
五蘊を空じ、更に末那識の自我をも完全に退治している意識層の阿頼耶識にあって、自己に固執する者は存在しない。では、〝如来〟はどのようにして如来として認識され得るだろうか。この第7偈はすんなりとその意味するところを読み取れますが問題なのは第9偈、
9.そこで自己のものとして固執されているものは何であれ
本質によって存在しているのではない
そして何かがそれ自身によっては存在していない場合
他のものに依存する本質によって存在することもできない
何を言っているのか理解するのがとても難しい内容です。解り易く言い換えますと、
そこで自己のものとして固執されているものは何であれ
(自我があるもは)
本質によって存在しているのではない
(縁起によって存在している)
(縁起によって存在している)
そして何かがそれ自身によっては存在していない場合
(独立して存在している訳ではない場合)
他のものに依存する本質によって存在することもできない
(縁起によって存在することも出来ない)
読みやすいように書き流します。
自我があるもは、
縁起によって存在している。
独立して存在している訳ではない場合、
縁起によって存在することも出来ない。
最後の「縁起によって存在することも出来ない」というのは、縁起は存在性を説くのでは無く、因果を説く法門ですからこのようになります。
縁起によって実在は起こります。実体は人間の認識(五蘊)によって起こるもので、縁起によって顕れる仏は、因果関係で成り立ちますので、その場合実在(存在)は認められないので〝無我〟となります。自我は縁起によって起こる(存在する)もので、五蘊を空じて自我が無く(無我のものが)、縁起で存在(実在)することはあり得ません。(因果によって認識されるのが仏です。その因とは五蘊皆空です)
要するに、人間が認知しうる仏には、仏と識別している時点で未だ自己性が備わっているという主張になります。
10.このように固執することと固執する者の
両方が、あらゆる点において空なのである
空である如来をどのように
その空によって知り得るだろうか
これは、「無我と縁起」の関係を言っているもので、
固執すること=実体視(縁起)
固執する者=有我(自己性)
両者を空じているのが如来であるといった主張です。完全なる真如の世界観にあっては仏は認識されないということです。(仏として認識されている限りは完全なる真如の世界(中観)ではないということ)
11.空(縁起=空)は主張されるべきではない
(非空)
(非空)
空でない(不空=実在=有)は主張されるべきではない
(非有)
(非有)
両方ともそうであると主張されるべきではないし
(亦有亦空の否定)
(亦有亦空の否定)
両方ともそうでないと主張されるべきでもない
(非有非空の否定)
(非有非空の否定)
それらはただ、名目においてのみ用いられるに過ぎない
これは、中道として顕れる真如の世界観を〝四句分別〟で説いたものです。〝四句分別〟とは、仏教でよく用いられる「四つの立場の主張」からなるインド古典論理学の一形式です。
真如の世界にあっては空は否定される。(空を空じたところに真如の世界が顕れる=非空)
では、空では無く実在(不空=有)なのかと言えば、そうでもない。(非有)
また「有(実在)であってしかも空(縁起)」であるのかと言えば、そうでもない。(亦有亦空の否定)
実在で無く(非有)縁起でも無い(非空)のが真如の世界観である。(非有非空の否定)
13.ブッダに固執していて
如来が実在(存在)するとする見解をとる者は
(仏と如来を同一視する者は)
涅槃に到達している者についての
概念的構築(分別)を行っている
(仏を概念的に捉えている)
仏と見る境涯は、未だ概念の中に意識があるということ。言い換えれば仏と如来とを同一に考える者は、意識が未だ概念から抜け出ていないということ。
14. その性質において彼は空であるので
涅槃の後にブッダ(久遠常住の釈迦)が存在するとか
存在しないとかいう考えは
妥当なものではないのである
真如の世界にあっては、生じる事も滅する事もないという事。このように理解すればあとの詩は、そのまま読み取れると思います。
15. すべての構築 (戯論)を超え出て行ってしまった者として
ブッダを認識において心に構築しようとする者は
そうした認識的構築を行うがゆえに
如来を理解することができない
16. 如来の本質が何であるにせよ
それが世界の本質である
それが世界の本質である
如来は本質を持っていない(無自性)
世界には本質がない(無自性)
お釈迦さまが示された三界唯心思想を理解出来ていない人達は、仏と如来を混同し、同一語だと思い誤った認識にたちます。仏教用語説明でも同一語扱いされている事が多い為、広く世間で誤って認識されてしまっております。〝空〟と同様にこれも仏教が中々正しく理解されない要因の一つでもあります。
続く
続く